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ニュースレター(機関紙)

子どもと大人のメンタルヘルス(4)疲れやすい子どもたち
NL05080103
メンタルヘルス


疲れやすい子どもたち


小児精神科医
沼畑玲子

1 現代の子どもの生活事情

子どもが子どもの社会で人間関係を築き、仲間から受け入れられる方法を学ぶためには、従来、「遊び」という場が不可欠だと考えられてきました。
子どもは遊びながら、悔しい思いをしたり、仲間はずれにされたり、意地悪をしたりされたり、また仲直りをしたり、と楽しさや傷つくことを繰り返し経験します。

状況、それに対する行動、態度、気持ちの伝え方等の組み合わせは限りなくあり、それに対して周囲がどのように反応するのかを、子どもは敏感に感じ取っています。
どのように振舞えば、より自分を満足させ友だちや社会からも受け入れられるのか、ということを私たちは「遊び」を通して無意識に検討しながら、自分なりのやり方を見つけてきたのです。

現代の子どもの多くは、遊びを通して、他者とのコミュニケーションに必要な誠実さ、ユーモア、勇気、言葉による感情表現、健全なたくましさ等を身につけるチャンスに恵まれていません。
大人顔負けの忙しい生活を送っている子どもたちは、身近な友だちでさえ、彼らがどんなタイプで、どのような反応を示しやすい人間なのかを、十分に把握していないことがあります。
友だちと遊ぶ時間があっても、パソコンに向かってゲームをする方が楽しい、と感じる子どももいます。

ゲームは、現代の子どもの生活と切り離せない存在にまで発展しました。自分の起こしたアクションに、素早くかつ刺激的な反応が得られる「手っ取り早さ」も大きな魅力のようです。
「速いこと」が「質の良さ」を表し、「衝撃的であること」が人々の「関心を得やすい」傾向になっている現代だからこそ、一見非日常的な内容であっても、子どもにとってゲームは親近感のある「楽しい遊び」なのかもしれません。

一般的に、周りの人間がいったいどんな人間であるか、という情報量が減ってきました。そのため、「気を遣うタイプ」の人間は、現代の希薄になった人間関係の中で、昔に比べますますたくさんの「気」を遣って、相手を不快にさせないように振舞っている、とも考えられます。
大人同様、人間関係を深める場は子どもの間でも減っています。子供は大人に比べて、場所や状況によって遣う「気」の量を適度に調整する、ということがうまくできません。
「緊張感を持つ場」と「力を抜いてもよい場」を上手に使い分けられない、「気を遣う」タイプの子どもは、調整できないことを補うために、常に周りの反応を気にかける、という状態になりやすいのです。

2 子どものストレス

親切で明るくクラスメートに慕われ、問題がなく暮らしているように見えるのに、実は疲れきっている子どもたちがいます。
彼らのほとんどが、自分のことをあまり話さず聞き役に徹し、友だちの相談に熱心に耳を傾けています。

役に立つことで初めて受け入れられた、と感じ安心できるのでしょう。しかし、感じないようにしてきた自分の感情が溜め込まれて一杯になると、それらを外へ出して楽になりたいという欲求が体の中から湧き起こります。

子どもは徐々に、押し込めてきた感情を何らかの形で、弊害の少ない場所で出し始めます。
自分の多面性が、外よりも家で出しやすいのなら、家では身の回りのことをしなくなったり、わがままになったり、頑固だったり、癇癪をおこしたり、うつうつとした暗い表情ですごす等の変化がおこります。

家より外で、押し込めている自分の感情をより安心して出せるなら、学校で「キレやすい子」となるかもしれません。
家の中と外でパーソナリティが異なるのは、子どもにだけ見られることではありませんが、この違いを持つことでなんとか精神のバランスをとり、日常生活を現状のままに維持しようとしているのでしょう。

しかし、ないことにし溜め込んできた内部からの感覚が、なんとか保ってきた見かけ上の平穏さを圧倒した時、子どもは電池が切れたように止まります。学校に通えなくなることもあるのです。
感情に触れないようにしてきた我慢が限界まで達した後は、もっとがんばらせようと周りがどんなに手を尽くしても、子どもは「これまでの自分」が期待されている世界に、そのままの姿で再び戻ろうとはしません。

自分の感情を扱いながらも、他人ともうまくやっていける安定した安心感と自信が獲得できなければ、元いた世界そのものが、自分の感情を押し殺さなければならない危険な場所だ、という解釈になってしまうのです。



3 気を遣うタイプの子ども

子どもは、親が快く感じるのをキャッチする能力に長けていて、親に受け入れられるやり方を自然に学習します。
自分の親が大変な状況にあり、助けを必要としているのだと感じたら、親の負担を増やさないように、「自分は大丈夫だよ。心配しなくていいよ。」というメッセージを伝え続ける傾向があります。
言い換えると、子どもは自分のつらさを心の奥に封じ込め、親を支える立場に立とうとするのです。

自分の振る舞いが親を支え、それゆえに自分は親により深く愛されると感じるならば、「愛される」「大事にされる」ためには「自分の感情を抑えて、いつも相手の気持ちを気遣う」というルールを社会生活の中でも活用するようになります。
   
4 A君の場合

中学2年生のA君は、難関の私立中学に合格した後もクラスの成績が常に上位で、サッカー部でも活躍する男の子でした。
小学校では生徒会長、中学1年では学級長に選ばれ、面倒見がよく誰にでも親切なことから、学校でも塾でも人気者でした。

しかし、中学1年の冬頃から体調を崩します。学校のサッカー部の活動をこなしながら週2日塾に通い、学校外のサッカークラブにも所属して練習していました。
帰宅してからは学校の授業の予習、復習、宿題に追われ、週に2日家庭教師が家に来ていました。
目も回るようなハードスケジュールの毎日に疲労のあまり学校に通うのもつらくなり、2年生に進級したのを機に、サッカー部を退部し塾もやめることにしました。

サッカークラブと家庭教師についても、疲労が回復するまではお休みすることにしました。
家でも勉強することをやめたのですが、疲労感がぬけきれず、連休前に学校に行けなくなってしまったのです。親は、当然あわてました。
疲れることは何もしていないのに、A君の体調は逆に悪くなっていくように見えたからです。
親は、A君に深刻な病気が発症したのでは、と考えいくつかの病院を掛け持ちで通いましたが、病気は見つかりませんでした。
A君はこれらの病院で心の治療を勧められ、私がA君にお会いすることになったのです。

A君と初めて会った時は、年齢よりずっと大人びた男の子、という印象を持ちました。姿勢よく座り、物事を筋道立てて話し、敬語が使いなれていたからでしょう。
また、疲れを感じ学校に通えない状態であることと、診察室でのしっかりした態度がアンバランスに見え、「このギャップが、このお子さんの大変さそのものなのだ。」と感じました。
普段の生活についていろいろ質問すると、両親、よい友達、理想的な学校に恵まれていることに感謝している、という内容に終始します。
精神的な面に関し困っていることは何もない、といった感じなのです。

「とてもわかりやすく教えてくれてありがとう。すごくしっかりしたお子さんだなあって感心して聞いていたんだけど、いつもこんな風に礼儀正しい言葉遣いをするの?」
「目上の人、というか年上の人の前ではそうしています。」

「たしか今、理由もないのにすごく疲れている、ということで困っているんだよね。」
「はい、そうです。」

「今ここで、そう見えないぐらいしっかりして見えるのは、ちゃんとしようってかなり頑張っているのかな?」
「別に大丈夫です。」

「そうか、礼儀正しくお話しすることは、もう慣れていて当たり前みたいになっているのかな?」
「多分そうだと思います。」

「年上の人には礼儀正しく気を遣うし、友だちには優しくして相談にのってあげたりするの、結構疲れるね。気を遣える人って、知らないうちにストレスが溜まることが多いんだけど、A君はどうやってそのストレスを解消してきたの?」
「子どもの時から、外に居る時と違って家ではすごくだらけていますから。」

「だらけるって、どんなこと?。」
「お風呂とか歯磨きをするまでにすごく時間がかかっちゃうんです。だから寝る時間が遅くなって疲れやすい、とよく母に言われます。」

「学校に居る時はテキパキしているの?」
「はい。別人だと思います。」

「家でボーっとする時間が必要なのかもしれないね。」
「そうですね。勉強が終わると何にも考えられなくなって、ボーっとしながらゲームをしたり、漫画を読んだりして、すぐにお風呂に入ったり歯磨きができなかったです。眠る気になれないっていうか、少し時間が経たないと頭が休めない感じでした。でも今は、勉強をしていないし、サッカーも休んでいるのに、体がだるくて学校に行けないんです。本当はただの怠け者じゃないのかなって思ったりします。」

「自分のことをそんな風に考えるのつらいよね。心配になっちゃうでしょう。お家の中で過ごしていて、疲れることに何か心当たりある? A君ぐらいの年の男の子は、普通は、家の中でいやだなって思うこといっぱいあるものなんだけど。」
「家庭に問題はないと思いますが、、、。」

A君が私をじっと見つめています。

「母と父がよくけんかすることかな。母は父に不満があるので、父が帰ってくると強い口調でと責めちゃうんです。内容はもっともだ、と思うことなんですけど、父も疲れて帰ってきたところに母から責められるから、キレちゃうんです。母は、最終的には泣いてしまうので、父がそれにまた怒って、収拾がつかなくなるんです。」

「A君の前でご両親がけんかをするの?」
「はい。最後にとめるのは僕ですから。二人とも興奮しているので、冷静な人がとめるしかないんです。」

「A君はいつからご両親のけんかをとめるようになったの?」
「えー、いつからだろう、、、。もうずっと前です。小学校の3何年生ぐらいだったかな。」

「たいへんだね。外では気を遣って、お家でもご両親のけんかをとめなくちゃいけないなんて。皆に頼りにされるのってたいへんなことなんだよ。長い間続けてきたのなら、本当に疲れただろうね。」
「、、、。」

「今、学校を休んでからは、家でお母さんと一緒にいるの?」
「はい。だいたい二人で話をしています。」

「今でもご両親のけんかをとめていますか?」
「はい。それぐらいはできますから。」


5 「子ども」の役割は「子ども」である

A君のように子どもが親を支えようとするケースは珍しくありません。そもそも母親には、自分の夫との間で解決できない難しさを子どもにぶつけたり、聞いてもらったり、共感してもらうことで、ストレスを解消する傾向があります。

しかし、この場面では、親と子どもの立場は逆転し、子どもが「援助する人」に、親が「援助される人」の役割に固定しがちです。子どもがまだ成長の過程にある時に、いつも親を守る立場に身を置くことは、健全な精神の成熟を妨げます。

なぜなら、未知の経験を積み上げながら人生を学んでいくためには、家に帰れば新しいことに挑戦した恐怖心や傷ついた心が親になだめられて回復し、次の日にまた新しい世界に踏み出せるよう励ましてもらえる、という支えが不可欠だからです。
この支えを欲することを放棄し、親を支えることを選択する子どもがたくさんいる、という事実を私たちは忘れてはなりません。

A君のお母さんは、実の親との葛藤を長い間抱えていて、そのことで体調を崩すほど悩んでいました。
夫は忙しく、また、ポジィティブ思考で切り替えが早いため、悩み事や愚痴を聞いてくれません。
お母さんは、深刻な悩みを友人にも話すこともできませんでした。そこで、唯一話せるのがA君だったのです。お母さんは、A君が自分のつらさを十分に理解してくれるように感じていました。

A君はお母さんのことを可哀想に思い、祖父母との現在のやり取りでお母さんが傷ついた時は、泣いているお母さんの代わりに腹を立て、両親のけんかにおいては、お母さんの不満をお父さんに代弁してきました。

A君は、学校を休んでから、お母さんの話を延々と聞いていたようです。
A君は、お母さんのパートナーであるお父さんの代わりをしたり、時には親になったり、愚痴をきく友だちになったり、と奮闘してきました。かけがえのないお母さんの支えになるためです。

しかし、A君の心の声に耳を傾けようとする人は、A君自身を含めても誰もいなかったのかもしれません。
子供が真の心の自由を獲得するには、それを援助する親の覚悟が必要となります。親が手放さなければならないものがあるかもしれません。
 
6 ひらかれていく、ということ

「子ども」の役割と「親」の役割の境界線はどこにあるのか。各々の役割に、あるべき姿という絶対的なものがあるのか。「自分」が「自分」らしく生きる、ことと役割との間に関わりはあるのだろうか。

私たちが、愛する人に自分の気持ちを伝え、また相手も自分に愛情をもっていることを確認するために、自分なりのやり方でその人を支えようとするのは自然なことです。
愛する人が落ち込んでいる時には慰めたり、腹を立てている時には怒りを共有したり、寂しい思いで居る時には自分が大切に思っていることを伝えたりします。

しかし、この支えとなりたい気持ちが、自分自身の感覚を失わせることを迫るものならば、私たちはその人の前で、いつも固定された役割を果たすようになったり、ある特定の状況になると固定された反応を示すようになります。

誰かとの関係において「私らしい」ということは、相手が予想する私の反応を指すのではなく、その場における私の役割が、私自身の中から自由に出たり入ったりすることができる、ということです。
役割が、私の感覚ではなく、特定の人間や状況に決定づけられる性質を持つならば、柔軟な心の動きが封じ込められてしまうでしょう。誰かに過剰に気を遣う時、私の心は自由に形を決められる柔らかさを失い、石のように硬くなります。この不自由さは私たちを疲れさせるのです。

固定され、動けなくなった役割関係からどのように脱出できるのだろうか。
私がここに居る、という私の感覚。あなたがここに居る、ということに気づきを持つ私の感覚。私たちが共にここに居るこの場を感じている、という私の感覚。これらを均等に維持しながら重心をとれる時、私は私らしくいられるのではないでしょうか。

疲れきった子どもには、疲れるだけの理由があります。それが心に関わるSOSのサインだと親が感じた時、いったい子どもの心の中に何が起こり、子どもと自分たち親とのコミュニケーションのあり方に、どのようなメッセージが行きかっているのか、ということを見つめる時が来たともいえます。誰かを支えるということは、自分自身の心と向きあることでもあるのかもしれません。