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ニュースレター(機関紙)

子どもと大人のメンタルヘルス(3)子供と親の距離について
NL05070103
メンタルヘルス


子供と親の距離について

小児精神科医
沼畑玲子


* 子供の躾

バスの中で、大声をあげて騒ぐ子供を静かにさせようと、母親が子供を必死に諌める場面に遭遇することがあります。バスの中は、電車やレストラン等に比べて、居合わせた人同士の距離が近いこともあり、周囲の関心が一箇所に集まりやすい環境です。バスに乗り合わせた人は、その親子を見ないように努めながら、子供の無作法さ以上に、それに対して親がどのように対処するのか、成り行きを静かに見守ります。

子供の騒がしさは、周囲の静けさによりさらに強調され、その場の緊張感は高まっていき、母親が子供を静かにさせようと焦れば焦るほど、事態は思わしくない方向に進みがちです。子供が母親の言うことを聞き入れず騒ぎ続けたり、叱られたために大声をあげて泣き出すなど、母親の奮闘が報われるとは限りません。母親は、普段の躾のいたらなさが露呈されたように感じ、肩身の狭い思いをするようです。子供を躾ける、とはどのようなことを指すのでしょうか。

* 子供が成長する過程

子供の躾は、何が「やりたくても、許可されないこと」なのかを、教えるところから始まります。これまで許されていたことが禁じられると、怒りや悲しみが生まれます。

子供にとって人生で最初の試練は、離乳であると考えられています。母親の愛情を直接肌で感じながら、自らの身体的欲求をも満たしてくれる行為が取り上げられるのですから、この時子供は大きな欲求不満を感じます。

トイレット・トレーニングも大きな試練の一つです。それまでは、いつでも自分がしたい時におしっこやウンチをすることが許されていたのですが、適当な時まで自分の欲求を制御しなくてはなりません。

自分を中心に回っていた世界が少しずつ形を変え、母親は自分の母親以外のアイデンティティー(妻である、娘である、妹や姉である、友人である、職業的役割等)の顔を持っていることや、弟や妹が生まれると、自分が独占してきた母親の時間を彼らに譲らなければならないこと等、成長したために、思いどおりにならないことがでてきます。

自分を取り囲む世界に受け入れてもらうためには、自分の欲求を抑えて我慢しなければならないことがある、ということを学ぶのです。

子供は、これまでの快適だった生活を手放す代償として、親からの信頼を得てさらなる愛情を感じたり、成長を称えられることで誇りを持ったり、社会に受け入れられている安心感を抱く、といった報酬を手に入れます。その報酬がなければ、慣れ親しんだものを手放すという、悲しみや怒りが伴う苦難を乗り越えるのはたいへん困難になるでしょう。


*「禁止」を与えられない親

しかし、子供の気持ちを尊重しようとするあまり、毅然とした態度で子供の躾ができない親が増えています。現代の親が、子供に対して、社会のルールそのものをストレートに教えられなくなったのはどうしてでしょうか。

子供に嫌われることを恐れて、いつも子供の機嫌を伺ったり、欲しがるものを次から次へと買い与える親もいます。彼らの多くが、自分が子供時代に親に威圧的に育てられ、親に言いたいことが言えなかったさみしさを抱えています。愛する子供には、自分と同じようなつらさを経験させたくない、という思いから、友達のように同じ目線で親子関係を築きたいと願うのかもしれません。

しかし、子供の衝動を治められず強いストレスに置かれた時、子供と友達の距離にいることは、子供を躾ける親としての振舞いを遠ざけ、自分が裏切られたと感じる怒りを子供にぶつけやすくなります。毅然とした態度を子供に示すことに抵抗を感じながらも、結果として、自分の感情をヒステリックに子供へ表出するのは、本来意図したことから離れてしまっています。


*「威厳がある」と「威圧的である」は同じではない

「弟が僕の大事なおもちゃを壊したから、僕は弟を殴ったんだ。弟が何もしなかったら、僕は殴らなかった。悪いのは弟だ。」と、子供が抗議してきた時、親はどのように子供と向き合えるのでしょうか。
弟を殴った子供に、「お父さんに言うからね。」、「そんなことを幼稚園でしていたら皆に嫌われるわよ。」、「○○ちゃんは、弟をたたかないんだって。」、等という言葉がかけられるのは、よくあることです。

しかし、この場合子供の意識は、「暴力を振るってはいけない。」という社会のルールではなく、別の方向に向いていきます。「悪いことは、お父さんに知られないように気をつけなくてはいけない。」、「いつか僕は友達に嫌われるんだ。」、「お母さんは、○○ちゃんはいい子だけど、僕は悪い子だと思っているんだ。」等と感じることは、子供にとって切実な問題なので、そもそもなぜ叱られているかについて考える余裕を持つことができません。

この反応は、親が暴力の禁止そのものに触れるのではなく、子供の恐怖心を利用して行動をコントロールしようとしたために、引き起こされています。子供の注意を躾の内容から、恐怖の対象に動かしてしまっているのです。

「毅然とした大人の圧倒的な力」という表現には、一見、「子供の心に耳を傾けない威圧的な大人」を連想させるものがあるようです。幼少期、威圧的に「大人の力」を振りかざされた人は、「大人の力」は子供の気持ちを押し殺し、さらなる我慢を強要する怖いものだ、と解釈するものです。

子供が欲求を抑えることに不満を感じている場面で、「暴力を振るってはいけない」という明確な教えが、子供がどんなにもがいても変えられることがない、安定さをもって示すことが大切なのです。躾けられる中で子供は、冷静で力強く、圧倒的な大人の力の前で「禁止」を破ることは許されない、という感覚を身につけていくのです。大人がこれまでの人生経験で積み上げた知恵と良識を背景に子供の前にいる時、子供は自分の存在より大きなものに包まれるのを感じ、その感覚は衝動が抑えられるように作用します。

冷静かつ毅然とした態度で子供を躾けるのは、簡単なことではありません。その時、子供の心の中で、何が起こっているのかを明確に把握するためには、親自身が我を忘れずに落ち着いていることが大切です。

躾のために親が威厳を持つことと同時に、もう一つ忘れてはならないことがあります。子供が弟に大切なおもちゃを壊された悲しみや、殴りたい衝動がこみ上げてきても我慢しなければならない悔しさが、否定されることなく扱われることです。この悲しみや悔しさを感じることは健全なことです。躾のプロセスにおいて、「禁止を与えること」と、「禁止を受け入れる時に、子供の中に生じる感情を共有していくこと」の両方があることは、子供が恐怖ではなく、愛情を感じながら成長する大きな援助となるでしょう。
「威厳ある態度」は子供を突き放すことではなく、まだ善悪の判断が正しくできない子供に、してはいけないことを伝える「真剣」さを伝えるものなのです。


*「禁止」がないことによる弊害

「禁止」を与えられずに育つ子供は、痛みを伴った学びのプロセスを持つことができません。幼少期に小さな事柄で試練を乗り越える機会を失い、思春期になって社会的な制裁を与えられるような場面で、「世の中には、やってみたくても許されないことがある。」と初めて実感する人もいるのです。この学びは悲劇的です。

暴力について考えると、幼少期に「禁止」を破ることは、弟を殴ることかもしれません。しかし思春期の場合は、ナイフで友人を刺す、ということもあり得るのです。支払う代償の大きさは、「禁止」を学ぶ年齢に依るところが多いのは明らかです。子供は、大人から与えられる「禁止」によって、失敗や葛藤を経験しながら欲求を制御することを学び、自由を失うにもかかわらず、結果としてこの構造に守られているのです。


* 大人が大人である大切さ

子供を育てることで、親が一人の人間として成長を迫られるのは避けられないことです。予想できない子供の行動に、こちらの感情は揺り動かされやすいものですが、躾には、親が我を忘れず、自分自身とつながりを持ち続けることが要求されます。

子供による悲劇的な事件が多くなってきた現代こそ、大人が大人として機能し、子供を躾けることの大切さが問われているのです。大人と子供の境界線が危うくなり、子供を子供として扱うことにためらいを感じ、社会のルールが子供の欲求に合わせて変化するとしたら、子供は社会に守られている存在ではなくなります。

子供の心に近づく方法は、いつも子供にあわせて、同じものの見方をすることとは限りません。子供は、世の中に自分の思い通りにならないことがあると、不安になったり、腹が立ったり、悲しい気持ちになり、自分の感情を自分自身で治められないことがあります。彼らがその感情を表現することを奨励され、支えられている感覚を持つには、親が子供の言動に左右されずに、安定した場所から見守っているのを肌で感じる必要があります。それは親が大人だからこそ子供に与えられる安心感なのです。

「躾」とは、簡単に定義づけられるものではありません。躾ける側の親も感情を持つ人間なので、躾ける際には必ず、「道徳的理念」と「親自身の欲求」に動かされます。虐待をする親も道徳的理念から、躾に暴力を用いるのですが、自分の欲求や必要性が増大するために暴力を止められなくなります。子供を「躾ける」ということは、私たち大人が「正しいあり方」を模索し続ける「真剣」さが問われることなのかもしれません。