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ニュースレター(機関紙)

感染症ノスタルジア(6)「もう一つのホロコースト...発疹チフス」
NL03040102
感染症、発疹チフス

海外勤務健康管理センター
濱田 篤郎

1.アンネの死

 1944年8月、アムステルダムでドイツ警察に逮捕されたユダヤ人のフランク一家は、ポーランドのアウシュビッツ収容所へと移送された。これが「アンネの日記」の主人公アンネ・フランクとその一家の末路である。だが、彼女がアウシュビッツに収監されてからの消息は意外に知られていない。実は、彼女はそこで殺されたのではなかった。その年の10月末に、アンネと姉のマルゴットはドイツ国内のベルゲンベルゼン収容所へ移送されていた。そして翌1945年の3月に彼女は病死している。それは、連合国により収容所が解放される約1ヶ月前のことだった。この少女を葬った病こそが、不潔病と呼ばれる発疹チフスなのである。

 第二次大戦も末期になると、ユダヤ人収容所は不潔の巣と化していた。とくに1944年に東部戦線でソ連軍が攻勢にでると、ポーランドの収容所に収監されていたユダヤ人達は、ドイツ国内の収容所へ送られ、そこでスシ詰め状態になる。アンネと彼女の姉も、このような経緯でベルゲンベルゼンに移動してきたのだが、そこには定員をはるかに越える5万人ものユダヤ人が収容されていた。食料が枯渇して餓死する者も多かったが、着替える服もなく、まして入浴など出来るはずのない環境で、ユダヤ人達は不潔という地獄を体験する。トイレさえも足りなくなり、大小便をズボンの中にすることにも、恥じらいを感じなくなるのである。こうした不潔地獄に止めを刺したのが、発疹チフスの流行だった。

 この病気はシラミにより媒介される。人間が不潔になると、そこには無数のシラミがたかり吸血をする。もし、その不潔集団の中に一人でも発疹チフスの患者が紛れ込んでいれば、病原体は瞬く間に集団全体に拡大するのである。アンネが到着したベルゲンベルゼン収容所も、まさにそんな状態だった。そして彼女も発疹チフスの餌食となり、16歳の短い一生を終えるのだった。

2.バラ色の発疹と幻覚

 ベルゲンベルゼンに限らず、第二次大戦末期のユダヤ人収容所では、衛生状態の悪化から発疹チフスが大流行し、多くのユダヤ人の命を奪った。終戦後の日本でも復員兵の増加とともに、この病気は猛威をふるい、1946年には3万人以上の患者が発生している。また、中国やシベリアに抑留された日本人の収容所でも、発疹チフスは数多くの人命を奪った。

 シラミは人間を吸血する時に脱糞をするが、この糞の中に発疹チフスの病原体であるリケッチアが混入している。刺された部位を掻きむしると、リケッチアは皮膚の中に擦り込まれ、やがて血液中へと侵入する。それから10日程たってから、突然の発熱とともに、バラ色の発疹が全身をつつむ。それはリケッチアが血管を食い破って生じた微小な出血斑なのである。

 もう一つ、発疹チフスの代表的な症状として精神症状がある。アンネも死の直前には、不安幻想の中ですべての衣服をひきずりおろし、毛布の中で熱に震えていたそうだ。ロシアの作家チェホフの短編「チフス」にも、主人公のクリーモフ中尉が発疹チフスを発病し回復するまでの様子が描かれている。彼は帰郷の途上でこの病気に罹り、家に辿り着いた直後に意識を失ってしまう。幻覚や錯覚に苦しみながらも、次第に意識を取り戻した彼の目の前には、涙を流す家族の姿があった。看病にあたっていた妹が死んでしまったのである。彼が覚醒したのに気付いた伯母は、冷酷な一言を告げた。
「おまえのチフスがうつってね、死んでしまったのだよ・・・・」

 クリーモフ中尉は2週間余りの苦悩を耐えぬいて回復したが、彼の妹のように僅か数日で死んでしまうこともあった。現在では抗菌剤の投与で完治する病気であるが、治療法がない時代には、患者の20%前後が死亡した。さらに、もともと衰弱している人が発病すると、死亡率は60%近くにも達するのであった。

3.ハプスブルグ家との因縁

発疹チフスが歴史の舞台に登場するのは近世になってからである。

 最初の流行は1489年にイベリア半島のグラナダで発生した。この当時、イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)が終盤を迎えており、敵対するイスラム教徒はグラナダとその周辺に追い込まれていた。この都市を包囲していたアラゴンのフェルディナンド国王とカステイラのイザベラ女王の軍隊に、発疹チフスの流行が発生する。この流行により2万人近い兵士が死亡するが、最終的にグラナダは1490年に陥落し、イベリア半島からイスラム勢力は一掃されるのである。やがてフェルディナンドとイザベラは結婚し、ここにスペイン王国が成立する。その影で、この新興国には発疹チフスが土着し、ヨーロッパの内陸深くへ侵入する機会を狙うのだった。

 ヨーロッパでの2回目の流行は、フェルディナンドとイザベラの孫にあたるハプスブルグ家のカール5世に数奇な運命をもたらした。カール5世はハプスブルグ家とスペイン王国の威光を背景にして、神聖ローマ帝国(現在のドイツを中心とした地域)を支配するが、ローマでの正式な戴冠式を望んでいた。彼は1527年にローマ入城を果たすが、市内でペストが発生したため、南方のナポリへの退避を余儀なくされる。ここで、彼の宿敵であるフランス国王のフランシス1世がイタリアに侵入し、1528年にナポリを包囲してしまう。カール5世の命運も尽きたかと思われたその時、フランシス1世の軍隊内に発疹チフスが発生し、包囲軍は壊滅するのである。こうしてカール5世は戴冠式を挙行し、正式に神聖ローマ皇帝の位に就くのだった。まさに、発疹チフスのおかげで皇帝になれたわけである。これ以降、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の支配者として君臨するのだが、その崩壊にも発疹チフスは関与している。

4.ドイツでの病巣の拡大

 ハプスブルグ家崩壊の予兆は、カール5世の甥にあたるマクシミリアン2世の時代に始まっていた。1566年に彼は東方を脅かすオスマントルコ帝国を撃退するため、ハンガリーに遠征を行った。この時、軍隊内に発疹チフスが発生したため、止むなく撤退をしている。問題はその後で、この遠征軍の帰還兵がドイツ各地にこの病気を撒き散らしたのである。

 やがて1618年から帝国内では三十年戦争が勃発する。これはカトリック信者である支配者のハプスブルグ家と、各地のプロテスタント勢力の戦いであったが、隣国のスウエーデンやフランスを巻き込む国際的な紛争へと発展していった。戦場となったドイツ国内は荒廃し、食料不足により兵士や住民は極度に疲弊するのである。ここに追い討ちをかけたのが、度重なる発疹チフスの流行だった。明確な勝敗がつかないまま、1648年に戦争が終結した頃には、ドイツ各地は発疹チフスの巣窟となっていた。

 この戦争の後に神聖ローマ帝国は崩壊し、ドイツは長い分裂の時代を迎える。ハプスブルグ家もその支配をオーストリア周辺に限定されることになるが、それに替わってドイツを支配したのが発疹チフスだった。ドイツでは1700年代になると、オーストリア継承戦争や七年戦争など大規模な軍事行動が発生しており、その度に発疹チフスは多くの兵士の命を奪っていった。そして1800年代初頭にナポレオンが登場し、45万人もの大兵力でロシア遠征を挙行した際も、ドイツを通過する遠征軍の足元を発疹チフスが脅かす。モスクワ占領に失敗し、疲労困憊して撤退する兵士達に、発疹チフスは容赦なく襲いかかった。この遠征で無事に帰還できたのは、僅かに4万人の兵士だったのである。

 1900年代になると微生物学の発展とともに、病原体であるリケッチアが発見され、この病気がシラミにより媒介されることも明らかになる。軍隊内でも兵士の衛生状態には充分な配慮がなされ、ヨーロッパでの発疹チフスの流行は消滅していった。1914年に勃発した第一次大戦でも発疹チフスは影を潜めていが、やがてバルカン半島のセルビアで、この病は支配者であるハプスブルグ家(オーストリア)に止めを刺すのである。

 セルビアは長らくオーストリアの支配下にあった。開戦とともに、この国はドイツと同盟関係を持つオーストリアを攻撃し、首都のベオグラードの奪還に成功する。しかし、そこには大量のオーストリア兵が捕虜として残されていた。この捕虜収容所で発疹チフスが流行を始めたのである。捕虜の半分にあたる6万人を殺し、流行は瞬く間に東部戦線に拡大していった。こうして第一次大戦の終焉とともに、ハプスブルグ家の名は歴史の潮流から消え去るのである。

5.監獄熱

 このように、近世ヨーロッパで発疹チフスは戦争や飢饉をきっかけに大流行を繰り返したが、イギリスではこの病気を監獄熱と呼んでいた。イギリスに限ることではないが、当時の監獄は衛生環境が劣悪で、日常的に発疹チフスの患者が発生していた。絞首台よりも、はるかに多くの囚人がこの病気で命を落としていたのである。さらに監獄だけではなく、法廷内で流行が広がることもあった。

 1577年にイギリスのオックスフォードで、ローランド・ジュンクスという罪人の裁判が開かれた。彼はカトリック教徒で、当時の政府を誹謗したため収監されていたのだが、出廷する時に発疹チフスを発病していたらしい。この裁判の直後から裁判官や陪審員などが、相次いで発疹チフスに倒れ、500人近くが死亡してしまった。皮肉なことに、感染源となったジュンクスは耳削ぎの刑を受けただけで出獄したそうだ。

こうした法廷内での発疹チフスの流行は、決して稀なことではなかった。そこで、法廷側も囚人の周囲に薬草を撒くなどの予防策をとった。イギリスの作家デイケンズの「二都物語」にも、この薬草が小道具として登場する。この作品はフランス革命当時のパリとロンドンを舞台に展開する壮大な恋愛小説であるが、主人公のフランス貴族がスパイ容疑で審理をうける場面に、次のような記載がある。
「彼は微動だにせず、前に置かれたその両手は、まかれた薬草を一枚として動かす様子もなかった」(中野好夫訳・新潮文庫)。

 この薬草こそが、法廷関係者を発疹チフスから守るための予防策だったのである。

6.なぜ近世になり流行が始まったのか

 近世以前のヨーロッパに発疹チフスが存在したか否かは、それ以前の書物にこの病気の記録がないため明らかではない。だが、記録がないということは、この病気が近世になりヨーロッパに出現したと考えるのが妥当なようだ。

 ヨーロッパへの発疹チフスの侵入は二つの方角から始まった。一つはイベリア半島のグラナダであり、もう一つはハンガリーからである。いずれもイスラム教徒との戦いの最中に、キリスト教徒側に流行が発生するという様式をとっている。こうした状況からすれば、もともと東洋で流行していた病気がヨーロッパに侵入したと考えたくなる。しかし、これは可能性が低い。なぜならば、東洋の古い書物にも発疹チフスは登場しないのである。

 米国の微生物学者ジンサーは、発疹チフスの原型として発疹熱という病気に注目している。これは発疹チフスと同様にリケッチアを病原体とするが、ネズミの間に流行する病気で、媒介昆虫もシラミではなくノミである。ヒトも偶発的に感染するが、その症状は発疹チフスに比べて格段に軽く、またヒトからヒトに伝播することもない。この病気が東洋のネズミの間では、以前から流行していたようだ。もちろんヒトの患者も発生してたはずだが、軽症の病気で大流行することもなかったため、記録には残らなかったのだろう。

 やがて近世になりヨーロッパと東洋の行き来が活発になると、ヨーロッパでも発疹熱の患者が発生してくる。さらに、この頃よりヨーロッパ各地では大規模な軍事行動が展開されるが、こうした事態にシラミが大量発生し、この昆虫がヒトからヒトに発疹熱を伝播するようになる。病気自体も重篤なものへと変化し、ここに発疹チフスが誕生するのである。

 以上はあくまでも仮説であるが、近世になってからのヨーロッパと東洋の交流の活発化、さらにヨーロッパ各地での戦乱の果てに、発疹チフスという病気が発生したのは間違いないようだ。

7.人災としての疫病

 冒頭でも述べた第二次大戦中のユダヤ人収容所での流行は、ヨーロッパで最後の発疹チフスの流行となった。しかしこの事例に関しては、それまでの数多くの流行とは異なり、人災としての側面をもっている。

10年程前に「ナチのガス室は本当にあったのか?」とする論争が沸きおこった。ドイツ軍がユダヤ人虐殺に用いたとされる毒ガスは、チクロンBと呼ばれる青酸性の殺虫剤である。実は、この殺虫剤は当時のドイツ軍がシラミの駆除にも使用していた。そこで、ガス室否定論者は「チクロンBはユダヤ人の発疹チフス撲滅のために使用されたのだ。ガス室はシラミ駆除のための部屋だ」と主張する。この論争の正否は別として、最終的に、数多くのユダヤ人が発疹チフスで死亡したことは確かな事実である。

強制的に収容された多くのユダヤ人が不潔な環境に押し込まれれば、そこに発疹チフスが発生することは、ドイツ軍側も充分に承知していたはずである。それでも彼等は事前に有効な対策をたてなかった。この時代までに発疹チフスは予防可能な病気であったことを考えると、ナチス・ドイツがユダヤ人に与えた試練は、生物兵器による殺戮にも等しい行為と言えるだろう。

 第二次大戦中のユダヤ人虐殺をホロコーストと呼ぶ。その主要な殺戮方法は毒ガスだったかもしれないが、アンネをはじめとする多くのユダヤ人が、不潔地獄の中に放置され、発疹チフスの餌食になり死んでいった出来事もホロコーストと呼べるのではないか。

近年もアフリカなどでは、戦争や飢饉などの際に、発疹チフスの流行が発生している。現代社会で戦争や飢饉は紛れもない人災であることを考えれば、発疹チフスという病気は人災が産みだす疫病なのである。そうであるなら、この病気が地球上から消滅する日も遠くないはずだ。

参考資料
ねずみ・しらみ・文明 H.ジンサー著(橋本雅一訳) みすず書房 1966年
文明と病気 H.G.シゲリスト著(松藤元訳) 岩波書店 1973年
ナチ強制絶滅収容所 マルセル.リュビー著(菅野賢治訳) 筑摩書房 1998年
アンネ・フランク最後の7ヶ月 ウイリー・リントベル著(酒井府、酒井明子訳) 徳間書店1991年