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ニュースレター(機関紙)

感染症ノスタルジア(5)「なぜに野口は死んだのか...黄熱」
NL03030102
感染症、黄熱

海外勤務健康管理センター
濱田 篤郎

1.野口英世他殺説

「野口英世はガーナのアクラで黄熱により非業の死を遂げた」

これは日本人の誰もが知る偉人伝の一説である。しかし、彼が死んだ1927年5月当時、アクラの町で黄熱は流行していなかった。当地に黄熱研究のため滞在していた野口は、患者を探すのに大変な苦労をした程なのである。そして、もう一つ奇妙な事実がある。野口が黄熱を発病したのはアクラではなく、出張で訪れたナイジェリアのラゴスだった。もちろん、この町でも黄熱は流行していない。このように野口の死亡状況については疑問な点が数多くあり、その死因については自殺説や他殺説まで唱えられている。

 彼は1926年の11月にアクラに到着している。それまでに野口は、ニューヨークのロックフェラー研究所で微生物学における数々の新発見を成し遂げ、世界的な名声を獲得していた。とくに1918年に南米のエクアドルで、黄熱の病原体としてレプトスピラ・イクテロイデス(細菌)を発見してからは、「人類の救世主」とまで持て囃されていたのである。そんな野口の発見が1920年代になり疑問視されるようなってくる。この疑念に応ずるため、野口は黄熱の流行が勃発した西アフリカに乗り込んでいった。

 しかし彼が到着した時に、西アフリカでの流行は既に鎮静化していた。やがてアクラ近郊の村で患者を発見し、その血液などを用いた研究が開始される。それは患者血液をサルに接種し、死後に解剖して体内の病原体を顕微鏡で探すという作業だった。この研究のために、2月までに約600頭のサルが使用された。そして3月になり、野口は自説を確信する根拠を得て、ニューヨークへの帰国準備に入る。アクラを出発する日も5月19日と決められていた。

 帰国を前にした5月10日、彼は挨拶のため、ラゴスにあるロックフェラー財団の西アフリカ本部を訪れる。そこは同じロックフェラーという組織の中にありながら、野口の細菌説に対立し、黄熱ウイルス説を唱える研究者達の牙城でもあった。それでも、友好的な雰囲気の中で訪問は終了し、5月11日に野口はアクラへの帰途につく。その船中で彼は高熱を発するのである。翌12日、アクラ到着後に白人専用病院へ入院し、そこで黄熱の診断が下される。病状は一進一退をつづけ、遂に5月21日正午、彼は51年の波乱の人生に幕を閉じるのである。

2.彼の死因は黄熱か?

野口の死亡状況は以上のとうりだが、果たして死因は本当に黄熱だったのか。まず、彼の発病から死亡までの経過は、黄熱のそれに合致するものである。

 現在までに、黄熱はウイルスによっておこることが明らかになっている。つまり、野口の細菌説は間違いだったのだ。このウイルスは発熱をおこすとともに、肝臓と腎臓を強く障害する。感染して3~6日の潜伏期の後に、高熱や全身の痛みで発病し、やがて肝炎の症状である嘔吐や鼻出血、吐血などが出現する。症状は3日程で一時的に改善するが、野口も5月11日に発病してから高熱や嘔吐に苦しんだ後、15日より快方に向かっている。

 この時期で治癒することもあるが、数日後に再び発熱がみられると、重篤な中毒期が始まる。この中毒期には肝臓や腎臓が強度に障害され、黄熱の語源となった黄疸が全身に出現し、さらに腎不全のため尿が出なくなる。やがて意識が低下すると、ほとんどの患者は死を迎えるのである。野口も5月18日より再び発熱し、尿の出が悪くなっていた。19日朝には痙攣をおこし、それ以降は死を迎える21日まで意識が朦朧とする状態であった。

 臨床経過以外にも黄熱を死因とする根拠はある。まず、野口の助手を務めていた病理学者のヤングが野口の採血を行い、それをサルに接種して黄熱を発病させている。またヤングは野口の死体解剖を行い、その死因を黄熱と確定している。さらに、この時に採取された肝臓の標本が、今でもロンドンの博物館に保存されており、その標本からも野口が黄熱で死んだことは明らかなのである。

3.アフリカ大陸から新大陸への贈り物

 それでは、野口はなぜ黄熱に感染したのか。黄熱は蚊に媒介される疾患である。通常は黄熱ウイルスを抱える蚊に刺されることで、感染が成立する。しかし、その当時の西アフリカでは流行が鎮静化しており、そのような蚊が彼の周囲に棲息していたとは考えにくい。この疑問を考えるためには、それまでの黄熱の歴史を振り返る必要がある。

 黄熱が人類史上に登場するのは17世紀のことである。1648年、メキシコのユカンタン半島やキューバなどカリブ海沿岸地方で、黒色の嘔吐と皮膚の黄染を特徴とする発熱疾患が大流行した。これが最初の黄熱の流行に関する記録である。やがて黄熱の流行は新大陸の全域に拡大していった。北米では東海岸を北上し、1690年にはニューヨークに到達している。合衆国独立直後の1793年には、フィアデルフィアで黄熱の大流行が勃発する。5万人の人口のうち5000人以上が死亡し、市内では中世の黒死病の流行を彷彿させるパニックが発生した。この流行の影響でフィアデルフィアは、合衆国の中心都市としての地位をニューヨークに奪われるのである。

 このように黄熱は新大陸で猖獗を極めていたことから、この病気の起源をカリブ海沿岸地方とする見方が強かった。しかし18世紀後半にジャマイカの医師ジョン・ウイリアムスは、黄熱が西アフリカにも存在することを確認し、西アフリカから奴隷貿易により新大陸に運ばれたとする説を発表する。この説は激しい論争を巻きおこし、カリブ海起源説を唱える学者との決闘により、ウイリアムスは死亡してしまう。

 その後の様々な検証により、黄熱は西アフリカに起源するとする説が現在では有力である。16世紀以降、新大陸での植民地建設のため、西アフリカから多くの黒人奴隷が船に乗って新大陸に運ばれてきた。この船に黄熱ウイルスを持つ蚊が便乗していたのである。その結果、黄熱は新大陸に到達し、1648年のカリブ海沿岸地方での流行が勃発したのである。

4.合衆国の執念

19世紀末までに合衆国政府は、国内重視の政策からモンロー主義と呼ばれる新大陸への覇権確保の政策へ転換する。1898年にはキューバの領有を巡りスペインとの戦争が勃発した。この戦争に勝利した合衆国はキューバを保護国化し、この国への内政干渉を開始する。その手始めが、この地で猖獗を極めていた黄熱の撲滅作戦だった。

1900年に合衆国陸軍は黄熱委員会を組織し、4名の専門家をキューバに派遣した。団長は細菌学者のリード少佐である。彼等は黄熱の感染経路を究明することに全力をあげ、まずは、現地の医師フィンレーが提唱していた蚊による媒介説を検証することにする。その検証とは、まさに人体実験であった。

彼等は、ボランテイアの兵士を黄熱の感染蚊に吸血させ、発病するか否かを判定しのである。しかし兵士は誰も発病しなかった。そこで、調査団のメンバーであるキャロル自身が実験台になることを申し出た。蚊の吸血を受けてから数日後、彼は見事に発熱し実験は成功した。幸いにもキャロルは回復したが、この実験から半月後、感染実験の責任者であった昆虫学者のラゼアーが、黄熱を発病し死亡してしまう。ラゼアーは偶然にも感染蚊に刺されたものと推定されているが、真相は不明である。

 ラゼアーの死後も感染実験は継続され、30%にも及ぶボランテイアが死亡する結果となった。こうした彼等の命の見返りとして、黄熱が蚊に媒介されることが明らかになるのである。この結果を受けて、団長のリードはキューバのハバナで蚊の掃討作戦を行い、そしてハバナから黄熱は消滅する。

 合衆国はこの実績をパナマ運河の建設工事にも応用した。運河の建設は1879年よりフランス人のレセップスにより開始されたが、現場が黄熱の巣窟であったことから、多くの労働者の命が奪われ、工事は中断されていた。1904年よりリードの後継者であるゴーガスが衛生責任者としてパナマに赴任し、徹底的な蚊の掃討が開始された。こうしてパナマ地峡の黄熱は一掃され、1907年からは本格的な建設工事が始まり、1914年に運河の完成をみるのである。

5.野口の登場

パナマ運河の完成により大西洋と太平洋は直結され、合衆国近隣の交通は大変便利になった。しかしその反面、カリブ海の黄熱が太平洋沿岸に拡大する危険性も生じていた。この事態に、スタンダード石油のオーナーであるロックフェラー家が手を差しのべる。

この当時のロックフェラー家は、税金対策として慈善事業に関心を持っており、それが黄熱撲滅へと向けられたのである。1914年にロックフェラー財団は黄熱撲滅計画を正式事業として決定し、1918年に南米のエクアドルへ調査団を派遣することにした。この調査団の中に、ロックフェラー研究所の野口がいたのである。

 これまでに野口は、梅毒スピロヘータの発見などにより、ノーベル賞候補にもノミネートされていた。彼は以前から、黄熱の病原体として細菌の一種であるスピロヘータを想定していた。その根拠は、黄熱と症状の類似するワイル病が、スピロヘータでおこることに由来している。そして、エクアドル到着後わずか9日目に、彼は黄熱の病原体となるスピロヘータを発見し、レプトスピラ・イクテロイデスと命名するのだった。

 しかし、彼が病原体の分離に用いた血液は黄熱患者のものではなかった。おそらくワイル病患者のものだったのだろう。すなわち野口の発見した病原体は、既に明らかになっているワイル病のスピロヘータそのものだったのである。二つの病気は類似する症状のため、現地の医師が鑑別することは困難だった。それにもかかわらず、野口は現地の医師の診断を信じてしまったのである。

 野口の報告を受けて、ロックフェラー財団は早速に黄熱ワクチンの作成を開始する。大量生産されたワクチンは中南米各地に配付され、集団接種が実施された。このワクチンは黄熱に全く効果のないものだったが、たまたまこの時期、中南米での流行は終息に向かっていたことから、野口のワクたチンは世界的な評価を受けることになる。こうして野口は、人類の救世主としてカリスマ的な存在に祭り上げられていった。

 ところが1920年代になり、野口の発見は間違いとする論文が相次いで発表される。とくにロックフェラー財団・ラゴス研究所のイギリス人スパークは、黄熱の病原体がウイルスであると主張した。スパークはサルを用いた感染実験で、この画期的な結論に至ったのである。身内からの反論により一大窮地に陥った野口は、起死回生をめざして、黄熱の流行が新たに勃発した西アフリカへと旅立つのだった。

6.事件の真相

 ここで野口がなぜ黄熱に感染したか検証してみたい。

 まず他殺説であるが、これは可能性が極めて低い。そもそも他殺説は、学問的に対立するラゴスの研究所を、野口が訪問した直後に発病したため、沸き上がったものである。たとえば、研究所の職員が黄熱患者の血液を注射器などで野口に注入すれば、彼を感染させることは容易である。しかし学説が異なるだけで、野口を殺すとは考えにくい。さらに決定的なのは潜伏期の問題である。病原体が注入されても、発病するまでには最短でも3日を要する。ところが野口は、ラゴス滞在2日目に発病しているのだ。

 自殺説も否定的である。たしかに野口は、帰国を前にして窮地に追い込まれていた。アクラで自説が正しい根拠を得たと言っても、それは強がりだったのかもしれない。しかし彼は帰国する船までも予約していた。また上司や妻に送った手紙類にも、自殺を匂わせる内容は全くみられていない。

 最後に事故説である。実験中に病原体で汚染された針を刺すとか、死亡したサルの解剖中にメスで手を切るなどの状況は十分に想定される。ウイルス説を唱えたスパークも、野口の死の前年、サルの解剖中に黄熱に感染し死亡している。アクラで野口の助手を務めたヤングも、野口の後を追うように黄熱で死亡しているが、彼もサルの解剖中に感染した可能性がある。サルを用いた実験は、それまでの人体実験に比べて、格段に安全な方法だった。しかし、死亡したサルの体内には黄熱ウイルスが充満しており、その解剖には細心の注意を払わねばならなかった。野口は死の直前に、決して実験中の事故がなかったと主張している。だが、帰国準備に追われ多忙を極めていた彼が、気の緩みで事故をおこしても不思議はないのである。こうした状況から、事故説は最も可能性が高いものと考える。

 もう一つ、私は人体実験説を唱える。野口は帰国を前にして、かなり切迫した状態にあった。このため、自説を証明する起死回生の方法として、彼は自分の身体を実験材料にしたというものである。すなわち、故意に自分の体内に病原体を注入したのだ。野口はアクラに出発する前に、自分が作成した黄熱ワクチンを接種していた。自説が正しければ、たとえ体内に病原体が侵入しても発病はしない。彼にはその自信があった。そして野口の頭には、20年以上前にリード達が実施した人体実験の模様が思い浮かんだに違いない。彼は臨終の真際に、「ぼくには、わからない」という言葉を発している。それは、自分の最後の実験結果に対する正直なコメトだったのかもしれない。

7.野口の評価

 野口が死んで10年後の1937年に、ハーバード大学のマックス・タイラーは真の黄熱ワクチンの開発に成功する。この業績により、タイラーは1951年のノーベル医学賞を受賞した。彼の作成したワクチンの効果により、アフリカや南米での黄熱患者は大幅に減少したが、現在でも密林の奥深くで黄熱の流行は続いている。旅行者にとっても、感染のリスクは少なからず存在し、とくに南米では毎年のように旅行者の感染例が報告されている。ワクチンの接種は不可欠なのである。

 黄熱研究者の中には、野口をはじめとして、この病気で殉職した者が数多くいる。それは、黄熱の研究が、微生物学の確立された20世紀初頭に始まったためではないだろうか。それまでは、患者の検体を顕微鏡で観察し、病原体を発見することが唯一の研究方法だった。しかし、この時代になると感染実験により病原体を証明する方法がとられるようになる。とりわけ、ウイルスという顕微鏡では見えない微小な病原体を相手にするためには、感染実験が必須のものだった。この実験こそが、当時の研究者にとっては大変に危険な行為だったのである。

 医学の歴史の中で、野口の黄熱に関する業績の評価は低い。それは、黄熱の病原体を取り間違えた学者として仕方のないことなのである。しかし、彼の死因が事故であっても故意であっても、命懸けでこの病気と格闘した姿は、人類の歴史の中で高く評価されることだろう。