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ニュースレター(機関紙)

感染症ノスタルジア(1)「パンドラの箱から跳びだした悪魔・コレラ」
NL02110102
感染症、コレラ

海外勤務健康管理センター 
濱田 篤郎 

 19世紀の微生物学の発展を境として、感染症は人間の健康上の脅威から消滅しようとしている。人間の誕生以来、その社会を脅かしつづけた感染症の魔力に、現代の人々は強い恐怖を憶える一方で、過去の英雄を懐かしむ郷愁ともいえる感情を抱くことすらある。

 このシリーズでは、感染症が人間の社会や文化に与えた影響を振り返るとともに、なぜ感染症が存在したかを、人間をとりまく生態系という観点から考えてみたい。



1.悲愴交響曲

 1893年10月28日、ロシアのペテルブルグにある劇場は喝采の嵐に包まれていた。ロシアが誇る天才作曲家チャイコフスキーが、交響曲第6番の初演を行ったのである。しかし彼は二度とこの曲の指揮をとることはなかった。

 演奏会から4日後、緊張から解き放たれたチャイコフスキーは、芝居見物をした帰りにレストラン・ライナーに立ち寄り、ネバ水(ネバ川の水)を注文した。その翌日、彼は猛烈な下痢をおこし意識不明の重態となる。それから4日後の11月6日未明、天才作曲家は53才の人生に幕を閉じるのである。このような経緯から交響曲第6番は悲愴交響曲と呼ばれるようになった。

 チャイコフスキーを葬ったこの病こそがコレラである。19世紀の初頭よりコレラは世界中を何回も蹂躙し、数多くの人々を亡きものとした。僅か3μmのバナナ状の病原体は人間の小腸に付着し、致死性の下痢をおこす。その量は1日で数リットルから十数リットルにも及び、人間の体は極度の脱水に陥ってしまうのである。患者の表情の変化は劇的なもので、少し前まで元気にしていた人が、眼は虚ろとなり、頬はくぼみ、そして皮膚の色が蒼白く変色する。これは極度の脱水でショック状態になっていることを意味している。断末魔のような叫びを発しながら、発病した人の半数は死んでいった。19世紀の人々はこんな患者の様子を見て、コレラのことを蒼い恐怖と呼んだ。それは悲愴な光景だったのである。

2.ベンガルから世界へ

 コレラの語源はラテン語の胆汁が流失するという言葉から派生したものである。古代ギリシャの医学書にもコレラという言葉は登場するが、この当時のコレラは夏場に流行する食中毒を意味していた。その重症度は真のコレラに及ぶものではない。真のコレラは、近世までインドでのみ流行する風土病だったのである。

 インド亜大陸の北方を流れるカンジス川は、ヒマラヤ山脈の高峰から流れだす大量の雨水を集めて、ベンガル湾に注ぎ込む。この海への流入部分には広大な三角州が形成されているが、そこがコレラの故郷である。この地で人間生活の営みが開始された頃より、コレラは密かに流行していた。ヒンズー教の巡礼に沿ってインド亜大陸内に流行が拡大することはあったが、その外に流行が及ぶことはなかった。

 やがて18世紀よりイギリスがインドの植民地化を本格化すると、事態は急変してくる。イギリスの植民地政策は、それまで何千年と続いてきたインドの社会や生活習慣を破壊するとともに、コレラという悪魔の潜む箱をも開封してしまったのである。それは、イギリスがインド支配を完成させるマラータ戦争の渦中のことだった。

 1817年8月にカルカッタの近郊で発生した流行は、ベンガル地方から移動するイギリス軍とともにインド国内に拡散する。やがて悪魔は1821年に忽然とアラビア半島のオマーンに姿を現わす。中近東やアフリカ諸国で殺戮を繰り返した悪魔は、北上してイランに到達し、この国に侵入していた数万人のロシア兵を亡き者とする。

 東方への流行はさらに大きかった。1819年にシャム、1820年にはジャワ、フィリピン、中国の東海岸、さらに1822年には日本の九州や中国地方にまで波及する。シャムではその後もコレラが燻り続け、映画「王様と私」に登場するイギリス人家庭教師のアンナも、コレラで死線を彷徨っていた。この「王様と私」のリメーク版であるジョデイー・フォスター主演の「アンナと王様」にも、モンクット王の愛娘がコレラで急死する場面が出てくる。悪魔は貧しい人ばかりではなく、国王の娘にも容赦はなかったのである。

3.悪魔のヨーロッパ凱旋

 1817年に始まったコレラの世界流行は1823年頃に終息するが、1826年よりヨーロッパ諸国を恐怖の坩堝にした第二次流行が勃発する。

 まず流行の矛先は中近東に向けられた。1830年、アラビア半島に再び出現したコレラはメッカを直撃し、巡礼に訪れていたイスラム教徒1万2,000人を血祭りにあげる。死を免れた人々は、故国に悪魔を送り届ける役割を担った。イスラム世界全体はコレラの餌食となり、エジプトのカイロとアレキサンドリアでは流行の極期に、一日で3万人が死亡するという状況だった。この影響で、当時のイスラム世界の覇者であるオスマントルコ帝国は衰退の一途を辿るのである。

 やがて流行の波はロシアを経由し、1832年、ヨーロッパ諸国に到達する。当時のヨーロッパは絶対主義から自由主義への移行期にあたり、各地で市民革命が勃発していた。そんな渦中に出現したコレラは、社会にさらなる混乱をもたらすとともに、恐怖という力で市民革命を援護するのであった。たとえばフランスのパリでは、1832年に国民的英雄だったラマルク将軍がコレラで死亡する。英雄を失った悲しみに加えて、コレラの恐怖に脅えたパリ市民は、暴徒化し市街戦へと突入する。この時の模様は、ビクトル・ユーゴの小説「レ・ミゼラブル」のクライマックスとして描かれている。

 ヨーロッパでの流行は大西洋を横断し、1832年には独立間もないアメリカ合衆国にも波及した。さらに新大陸を南下し、中米諸国をも餌食とするのである。

 この世界規模に拡大したコレラの第二次流行は、1837年に漸く鎮静化を迎える。

4.恐怖の治療法

 コレラの流行が勃発した当初、多くの人々は、この病気が悪い空気でおこるものと考えていた。古来から感染症の原因は、大地から沸き上がる有毒な気体(ミアズマ)とする説が有力だったのである。もちろんこの時代になると、接触を原因とする説も有力となり、患者は隔離されるようになっていた。それとともに、悪い空気を追い払うため、ヨーロッパ各地では様々な対策がとられた。酸や樟脳を炊いて燻蒸する方法もその一つである。また漂白剤を散布することもしばしば行われた。ルキノ・ビスコンテイ監督の名作「ベニスに死す」にも、コレラに襲われたベニスの町が登場する。町中が煙に覆われ、街角の至るところに白い粉が撒かれており、これこそコレラの支配する町の様相だったのである。

 やがて1854年にイギリス人のスノーが、コレラの感染源が飲み水であることを解明すると、人々は水を加熱して飲むようになった。イギリスではこの頃から紅茶の消費量が急増するが、これはコレラ予防のために一般市民が紅茶を飲用するようになったからである。またこの頃からヨーロッパ各国の政府は、安全な水の確保のために上下水道の整備を本格化する。

 しかし依然として悪魔の正体は不明であった。この当時、ヨーロッパで行われていたコレラの治療法は、まさに悪魔払いに近い行為だったのである。最も一般的に行われていたのが、水銀と阿片の投与、そして冩血(血液を除去する治療法)である。水銀は下剤として以前から使用されていたが、腸の中の病毒を洗い流すという理由で、コレラの治療にも用いられたのだろう。この治療は体の脱水を助長し、患者の状態をさらに悪化させるだけでなく、多量に投与すれば水銀中毒をおこす可能性もある。冩血も体の中から腐った血液を除去するという目的で行われたが、気絶するまで採血が続けられることも多かった。いずれにしても、現代のコレラ治療では、下痢による極度の脱水を改善させるために大量の輸液を注入しており、当時はそれと全く逆の治療をしていたことになる。コレラで死亡した者の中には、この治療により命を落とした者も少なくなかった。

5.体液を吸い取る悪魔の正体

 世界を恐怖の坩堝にした悪魔の正体は1883年に明らかにされた。幸いなことに19世紀の中頃から微生物学が急速な進歩を遂げており、その原動力となったのがフランスのパスツールとドイツのコッホである。二人はコレラの原因究明においても熾烈な競争を展開し、最終的にはコッホの勝利に終わる。彼は流行の渦巻くエジプトに赴き、患者からコレラ菌の発見に成功する。

 やがて、この病原体が腸の中で毒素を産生し、それが猛烈な下痢の原因となることも解明された。コレラ菌から発射された毒素は、腸の粘膜に多数の穴を開け、そこから体液が噴水のように漏れだす。これが大量の下痢となり、体は極度の脱水に陥るのである。

 患者は便の中に大量のコレラ菌を排泄し、その数は1gの糞便中で107~108にも達する。この菌は水の中でさらに増殖を繰り返す。コレラ菌が人間に感染するためには10の11乗の菌数が必要であるが、上水道が糞便に汚染されるような当時の環境では、一瞬のうちにその数に到達したことだろう。また、コレラ菌はベンガル地方という熱帯が故郷でありながら、低温でも充分に増殖が可能だった。これがヨーロッパなど温帯でも流行する原因になったのである。

 その後の研究の結果、コレラ菌は塩分を好むことが明らかになった。近年でも海産魚介類を食べてコレラに感染する事例が報告されているが、これはコレラ菌が海水を好む性質に由来している。とくにベンガル地方の三角州は、淡水と海水が適度に交じり合う場所で、コレラ菌にとっては格好の棲息地だった。人間の腸に侵入したコレラ菌も、体液という塩分のシャワーを存分に浴びながら、故郷を懐かしんだことだろう。

6.悪魔の消息

 コレラの世界的な流行は、その後も20世紀の初頭まで続き、やがて故郷のベンガル地方に消えていった。

 ところが1961年より新たなコレラの流行が、インドネシアのセレベス島に勃発する。これはエルトール型と呼ばれる新種のコレラで、19世紀に流行したコレラは古典型あるいはアジア型と呼ばれる。エルトール型の流行は、1964年に古典型の牙城であるベンガル地方にまで及び、細々と生き長らえていた古典型はここに消滅する。コレラ菌の世代交代とも言える出来事である。

 その後、エルトール型コレラは破竹の勢いで1969年には中近東、1970年にはアフリカ大陸にまで到達する。さらに1991年には突如として南米のペルーに姿を現し、瞬く間に中南米一帯へと拡大するのである。この流行は現在でも世界的に続いており、毎年50万人以上の患者がWHOに報告されている。

 これだけの大流行を繰り広げているエルトール型コレラであるが、その特徴は古典型に比べて症状が軽い点にある。古典型は蒼い恐怖と呼ばれるほど、急激に致死性の下痢をおこした。しかしエルトール型は感染しても軽い下痢で終わることが多いのである。適切な治療をしていれば、命を落とすことは少ない。さらに世界各地で上下水道の整備が行われた結果、古典型のように飲み水から感染が広がることも少なくなった。むしろ最近では海産魚介類が感染源となることが多いようだ。日本人旅行者でコレラに感染する例が最近でも少なからず報告されているが、恐らく現地で食べた海産魚介類が原因となっているのだろう。

 このように、今も流行しているエルトール型コレラは、古典型のような獰猛さを失い、飼い慣らされた野獣の状態なのである。

7.パンドラの箱が開封されて

 地球上で38億年前に生命が誕生したのは海の中だった。塩分を好むコレラ菌は、生命誕生の頃から存在した極めて原始的な生物と言えるだろう。その歴史は人類よりも遥に古いのである。

 やがて人類が誕生し、インドのベンガル地方に定住するようになってから、コレラ菌はこの地方の人口増加を抑える役割を担っていたのかもしれない。現在でもベンガル地方は、地球上で最も人口密度の高い地域である。それだけ人間の生活に適した環境には、過剰な人口を減らすための抑止力が必要だった。私はそれがコレラ菌だったと考えている。そしてインドを植民地化したイギリスは、このベンガル地方で人口調整を司っていた生物(コレラ菌)を誤って世界中に撒き散らしてしまったのである。

 それはギリシャ神話に登場するパンドラの箱の光景に似ている。世界で最初の女性・パンドラは、神から預けられた一つの箱を、欲望に負けて開けてしまう。中から跳びだしたのは恐怖、怒り、悲しみなどの悪魔で、それが次々と人間世界に舞い降りていった。19世紀に世界を震撼させたコレラの流行も、まさにイギリスがベンガル地方で、コレラの潜むパンドラの箱を開封したためにおこった出来事なのである。

参考文献
1)「コレラの世界史」見市雅俊 晶文社 1994年
2)「病気の社会史」(NHKブックス) 立川昭二 日本放送出版協会 1971年
3)「疫病の時代」酒井シヅ編 大修館書店 1999年
4)「開発途上国における下痢症・コレラを中心に」 竹田美文 感染症 23(5)165-172.1993年
5)「旅と病の三千年史」(文春新書) 濱田篤郎 文藝春秋社 2002年


編集部より
 本企画のテーマはコレラやマラリアなどクラシックな感染症が、過去に人間の文化や社会、芸術に与えた影響を振り返りながら、現在の状況や予防対策を考えるというものです。一般の方々に向けた内容で、6回程度のシリーズとなる予定です。